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イタリアのカンパーニア地方、ソレント半島の南側のわずかな平地にへばりついているような小さな町アマルフィは、古代ローマ時代以来途絶えていた東洋と西洋のつながりを復活した男たちが出た町で、イタリアの四つの海の共和国のひとつとして大いに栄えた海運国であった。
塩野七生はその著書「海の都の物語」のなかでアマルフィを、『ナポリ湾の西の端にあるポッツォーリが古代ローマ時代の重要な軍港であったところから、歴史的に船というものに、慣れ親しんできたといえるであろう。@地勢的にも、猫のひたいほどの土地とはこういう場所のことを言うのかと感心させられるほど、狭くて耕作に適していない。@陸路も、今日ではサレルノとナポリを結ぶバスがアマルフィを通り抜けているが、この山腹を行くバスを海上から眺めていると、曲がり角ごとに鳴らすことになっている警笛が始終聴こえることでもわかるように、陸路を行こうとすれば、どこへ行くにも相当な困難を覚悟しなければ行けないようにできている。@自動車道路が開通した今日でさえもこれだから、一千年以上も昔は、それこそ陸の孤島であったろう。@アマルフィの男たちは、海へ出て行くより他に生きる道がなかったのである。』と書いている。@まったく的を射た文章だ。
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西暦533年に創立されたといわれるアマルフィの名前が記されている最古の記録は、西暦596年に法王グレゴリウス一世が司教ピメニウスに宛てた書簡である。@なお伝説によれば、はるか古の時代、ヘラクレスはその愛したアマルフィという女性を埋葬した地に町を作り彼女の名を取ってアマルフィと命名したという。
アマルフィはその初期の段階からビザンチン帝国傘下のナポリ公国に形式的には属していたが、事実上は独立国と変わらなかった。@すでに6世紀後半には司教区になっていたということであるから、そのころすでに活発に貿易を行い、人口もかなりのものとなっていたのであろう。@8世紀から9世紀にかけてはベネベント、後にはサレルノのロンバルディア人によるたびかさなるアマルフィ支配の画策を粉砕してきたが、838年遂にアマルフィの支配階級の裏切りによりその支配を受けるようになる。@アマルフィはしかしすぐさま支配階級の改革を行い、翌年夏逆にサレルノを襲い、略奪し、ロンバルディア人にとらわれていた市民を奪い返すと、839年9月1日独立を宣言した。@850年ごろには共和国となりこの政体は11世紀まで続く。@9世紀中ごろがアマルフィの絶頂期始まりで、それは1100年ごろまで続く。@10世紀にはその商圏をトリポリ、アレクサンドリア、チュニス、コンスタンチノープルなどに拡大し、ジェノヴァやピサからマーケットを奪っていく。@アマルフィ商人たちは地中海や北アフリカ地域に植民をしていき、それらの地では倉庫、修道院、商店、病院そして居留区を作り、その地での治外法権を獲得している。@なお当時の修道院は、旅人に宿泊の場を提供する機能を持っていた。@895年にソレントにより手ひどい打撃を受けたアマルフィはソレントに対抗するためサラセン人との同盟を結んだが、915年には彼らを自領から追い出し、920年にはレッジョ・カラブリアでの戦闘などを経て敵対関係は増していく。@11世紀にはタビュラ・デ・アマルフィという航海法を制定した。@これは最古の航海法で、例えば船主と商人、乗組員の関係等を明確に規定しており、中世期のみに価値のあったものではなく、現在の航海法にまで影響を及ぼしていると言われる。@900年ごろからはタリ
Tari
金貨の鋳造を開始し、1220年にフレデリック二世の命により禁止されるまで続いている。@これは50%の金と同量の銀、それに少量の銅を含んだもので、アマルフィの船隊の寄港したアフリカを含む各地で流通した。12世紀後半ないしは13期初頭には磁化した針(羅針盤)を航海に取り入れたり、アラブの技術を取り入れ工業規模での紙の生産を始めている。
1073年の住民の反抗の際にノルマン人の援助を求めたアマルフィは彼らによって占拠されてしまう。@1135年と1137年にはピサの攻撃を受け、アマルフィ海軍は壊滅的な打撃をこうむり、その活動範囲は劇的に減少していった。@1282年のシシリアの夕べの祈りに端を発した20年戦争、1306年と1348年のペストの大流行、そして1343年の暴風雨によりこの栄光の海の共和国は息の根を止められることになり、僻地の一寒村へと転落の道を歩んでいく。
アマルフィはしかしロマンティシズムの萌芽と共にエキゾシズムと芸術的インスピレーションを求めてイタリアを旅行する外国人によって再発見され、今日に至っている。
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ナポリからチルクム・ベスビアーナ鉄道ソレント行きに乗り約1時間、終点のソレント
Sorrento
で下車する。
ソレントはナポリ湾に面する高級リゾートだ。@アマルフィへ行くSITA社のバスは駅前広場から出る。@まず駅の下のキオスクでチケットを買っておく。@ここはチケットだけ売っているわけで無いので待たされていらいらすることもある。@なおチケットはSITA社の名前と「QUI
VENDITA BILIETTI」の表示あるバール、タバッキ等でも売っている。@アマルフィまではかなり乗り出があるのだが運賃は4,100リラと実に安い。@バスは必ずしもアマルフィ行きの表示のある場所に止まるわけではないので、出発時刻が近づいたら広場に入ってくるバスの行き先表示に注意しておく。@バスに乗車をしたらまず時刻刻印機で必ず刻印をしておく。
SITA社@ソレント@-@ポジターノ@-@アマルフィ@バス時刻表 |
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07:10 |
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F |
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F |
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H |
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11:40 |
12:15 |
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G |
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G |
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F |
12:10 |
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12:50 |
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G |
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13:00 |
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13:35 |
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F |
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G |
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16:25 |
16:50 |
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16:00 |
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17:15 |
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16:35 |
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F |
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17:10 |
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F |
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19:15 |
19:15 |
19:40 |
20:05 |
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F |
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20:00 |
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19:40 |
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F |
20:00 |
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21:15 |
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@ |
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@ |
F |
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22:10 |
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23:20 |
上記の時刻表は2000年6月15日から9月14日までのもので、「G」は毎日、「F」は日曜および銀行休業日を除く毎日、「H」は日曜および銀行休業日のみ運行。@以下の時刻表も同じ。 |
ソレントを出たバスは市街地を通りメータまでナポリ方面に戻り、ソレント半島を横断しサレルノ湾に向う。@そのバスがサレルノ湾に面したあたりからサレルノの手前のヴィエトリ・スル・マーレまでの海岸線はアマルフィ海岸と呼ばれており、海へ切り立った崖が落ち込んでいる。@バスは海岸線に沿った断崖上に作られた国道163号線をアマルフィに向う。@斜面にへばりついたようなポジターノ
Positano
の町も一度ここを通っただけでまぶたに焼きつくほど魅力的だ。@ここはサラセン人の襲撃から難を逃れたパエストゥムの住民によって開かれたと伝えられる。@つづれ折れの断崖上の道からの眺めはすばらしく、またスリルに富んでいる。@高所恐怖症の人は右側窓際の席に座ってはだめだ。@プライアーノ
Praiano、エメラルドの洞窟
Grotta di Smeraldo
を経て、1時間半ほどでアマルフィにつく。
2000年11月にこの地を訪れた際にはソレントに午後4時半過ぎに着いてしまったため、6時15分のバスまで待つことになってしまい、すばらしい景色を見逃してしまったが、通過する町に灯るともし火が何とも言えず美しく、感激した。
サレルノ@-@アマルフィ@SITA@バス |
アマルフィ発 |
サレルノ発 |
05:15F@05:25F@06:00G@06:30F@07:00G@07:10F@07:50G@08:05F@08:30G@09:00G@10:00G@11:00G@12:00F@12:10G@13:15G@14:10G@15:15G@16:00G@17:00G@18:00G@19:00G@19:30F@20:00G@21:00G@22:00G |
06:00F@06:45G@07:00F@08:00G@09:00G@09:30G@09:50G@10:30G@11:30G@12:00F@12:45G@13:20F@14:00F@14:30G@15:30G@16:30G@17:00G@17:30G@18:30G@19:30G@20:30G@21:30G@22:30G |
所用時間約1時間10分。@料金3,200リラ。@サレルノの終点はバス・ターミナル。@国鉄駅に行く場合には終点まで行かないで途中で降りる。@ドライバーが駅に行く人はここで降りろと言うので、すなおにそこで降りる。@駅へは海とは反対側へ2~3分歩いたところ。@サレルノからアマルフィへ行く場合にはコルソ・ガリバルディ
Corso Garibaldi
のバス停から乗るが、多少分かりづらいのでソレントからアマルフィに入るのがお奨めだ。 |
ナポリ@-@アマルフィ@SITA@バス時刻表 |
アマルフィ発 |
ナポリ発 |
05:45F(07:30)@06:15F(08:15)@06:40F(08:30)@06:40H(08:50)@15:25F(17:20)@17:00F(19:50)@
18:30F(20:25) |
08:45F(11:30)@10:00G(11:55)@14:15F(16:10)@16:15F(18:15)@17:15F(19:10)@18:00F(19:55) |
()内は着時間。@アマルフィ17:00、ナポリ17:00発の便はソレント経由。@その他の便はヴィエトリ・スル・マーレ、トラモンティまたは高速経由。@ |
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アマルフィのバスは港に面したピアッツァ・フラヴィオ・ジョイア
Piazza Flavio Gioia
に発着する。右写真の青い
SITA
社のバスが止まっているところがその広場だ。@広場の一角写真右手にはバスのチケットを売るキオスクがある。@またこの広場には羅針盤の発明者と言われるフラヴィオ・ジョイアの像が立っている。
広場の後方に立っているのがホテル・ラ・ブッソーラ
Hotel La Bussola、現在三ツ星ホテルではあるが、かつて1987年に泊まった時の印象は寒寒としたそっけない感じだった。@その上方に見える大きな建物は四つ星ホテル、ホテル・カプッチーニ・コンベント
Hotel Cappuccini Convento
だ。@ここはカプッチン派の修道院をホテルに改装したところで、ここのテラス(建物右側)からの眺望はすばらしいと言うことだ。
ピアッツァ・フラヴィオ・ジョイアから道路を渡って山側へ少し入ったところがピアッツァ・ドォーモ
Piazza Duomo
で、その東側にドゥオーモが燦然と輝いている。@その広場を突っ切って上へ上へと市街地が続いている。@市街地は海沿いの道路を底辺とした三角形状になっており、各建物の間の道は狭く複雑で迷路のようである。@これは猫の額のような狭い土地の地形状の理由と、外敵の進入時のことを考えてのことであろう。@その狭い通路の所々にはトンネル状になったところがあり、散策するのも面白い。@そのような小道の奥にレストランやとラットリアがあり、1987年にはそのような場所で山腹をくりぬいたような洞穴風のレストランで安くて美味な料理を堪能したのが思い出される。
国道をアトラーニ
Atrani、サレルノ方面に行くと左手にインフォメーションがあり、その先の奥まった所にある広場に面し市役所と市立博物館がある。@さらに海岸沿いの道を進むと、左側に四つ星ホテル、ホテル・マリーナ・リヴィエラ
Hotel Marina Riviera
とホテル・ルナ・コンベント
Hotel Luna Convento
と続き、海側には現在ナイト・クラブになっているトッレ・サラセーノ(サラセンの塔)
Torre Saracena がある。
ホテル・ルナ・コンベントが市街地の東のはずれで、ホテルの先から山に登っていくとチミテロ・モニュメンターレ
Cimitero Monumentale
という墓廟があり、夜間はライトアップもされて美しい。
五つ星ホテルのイル・サラセーノー
Il Saraceno
とサンタ・カテリーナ
Santa Caterina
は上の写真に見えるトンネルの先にあるようである。
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ピアッツァ・ドゥオーモから1728年に作られた57段の階段がドゥオーモへと導いてくれる。@この大聖堂はそれまであった聖母マリアの被昇天
Assunta
の教会に加えられるような形で、987年にアマルフィの守護聖人聖アンデレの聖堂として、マンソーネ一世によって建立された。@現在のファサードはそれ以前のバロック様式のものが1861年に崩壊したため再建したもので、1891年に完成している。
聖堂の左手には1180年から1276年にかけて建立された鐘楼が見られる。@鐘楼の下の3層は明らかにロマネスク様式を表しているが、最上階は白地に鮮やかな黄色と緑のマジョルカ・タイルを互い違いにアーチ状に配した強烈なムーア・スタイルである。@そのデザインは帽子をかぶった人の顔にも見え、何ともユーモラスである。最初の「アマルフィと言うところ」に掲げた写真でその「顔」がおわかりいただけるであろうか。
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ピアッツァ・ドゥオーモからのドゥオーモの眺めは昼間も実にすばらしいが、夜間もライト・アップされ実に美しい。@今回持参したディジタル・カメラの感度が悪いため、夜間にとった写真はどれも真っ暗と言う有様になってしまったので、1987年の銀塩写真を上に掲げた。@サービス・サイズをスキャナーで拡大したためディテールが甘くなってしまってその細部までお見せできないのが残念だ。
階段を上ってみよう。@正面のポルティコ部分(右写真はその内部を写したもの。)は19世紀に再建されたもので、大理石と御影石のコラムの全てがオリジナルのものと言うわけではない。@写真右側に先程登って来た階段があり、左手前にかすかに見られる緑色の扉は1060年にコンスタンチノープルで作られた青銅製のもので、8世紀に作られた繊細な浮き彫りの施された大理石の玄関枠に取り付けられている。@このポルティコをカメラ方面に向うと、後で説明するキオストロ・デル・パラディーソの入り口に至る。
その緑の扉から中に入ってみよう。@教会堂の内部は本堂と2列の側廊とにコラムで分けられている。@そのコラムと天井の何ときらびやかなことか(下左写真)。@アンドレア・デラスタ
Andrea dell'Asta
と彼の弟子たちによる聖アンデレの伝説を描いた3枚の天井画と黄金の天井装飾は圧巻だ。@下右はその内の一枚「鞭打たれる聖アンデレ」を描いたものだ。@主祭壇は1711年から1712年にかけてジュゼッペおよびパオロ・モッツェッティ
Giuseppe & Paolo Mozzetti
の作で、それ以前の祭壇の大理石を一部用いている。@正面の祭壇画は、デラスタが1715年に描いたものだ。 |
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キオストロ・デル・パラディーソ
Chiostro del Paradiso
の入口は、ドゥオーモの階段を上りきったところのポルティコを左に向うと、大聖堂に隣接して右側にある。@夏季は朝9時から夜9時まで、冬季は朝10時から夕5時までで、入場料は3,000リラ、これで博物館になっているバジリカ・デル・クロ-チェフィッソ
Basilica del Crocefisso
とクリプト Crypt
も見られる。
キオストロ・デル・パラディーソ(天国の回廊)は1268年に大司教フィリッポ・アウグスタリッチョの依頼で作られたが、もともとここはアマルフィの貴族たちの埋葬場所として企図されていた。@右の写真は四辺にめぐらされたキオストロ・デル・パラディーソのポルティコ部分から反対側を見たものであるが、120本の大理石の細いコラムに非常に変わったアーチが乗っており、その白色とあいまって、軽やかな天上的な不思議な世界を作り出している。
ここからは上記のドゥオーモの鐘楼が間近に見える。
その回廊の一角にバジリカ・デル・クローチフィッソの入口がある。@ここは9世紀までさかのぼることが出来るアマルフィ最古の大聖堂である。@一時期ここはバロック・スタイルに装飾されていたが、1931から1994年にかけての修復でロマネスク・スタイルに戻された。@現在はディオチェサン博物館
Diocesan Museum
として、各種の展示がなされている。
1203年に建造されたと言うクリプト
Crypt
(地下礼拝堂)に入ってみよう。@ここの中央祭壇には、1206年の悪名高き第四次十字軍の際にコンスタンチノポリスからもたらされた聖アンデレの遺骸が納められている。@この聖アンデレとは、『さて、イエスがガリラヤの海辺を歩いておられると、2人の兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをご覧になった。@彼らは漁師であった。@イエスは彼らに言われた。@「私についてきなさい。@あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」』(マタイによる福音書第4章18-19)という逸話の中に出てくるアンデレでペテロと共に最初の十二使徒となった人である。@堂内のインテリアはすばらしいし、またここにあるミケランジェロの弟子のミケランジェロ・ナッチェリーノ
Michelangelo Naccherino により16世紀に造られたブロンズの聖ステファヌスと聖ロレンツォの像も必見だ。
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アマルフィの中心部から海岸沿いの国道をアトラーニのほうへ約500m程歩いていくと、右側にトッレ・サラセーノの塔が見えてくるが、ホテル・ルナ・コンベントの入口はその少し手前左手にある。@道路に面した階には入り口と2基のエレベーターがあるだけで、リセプションへ行くにはそのエレベーターで昇る。
ここは1222年に聖フランチェスコによって開かれた修道院をホテルに改修したものだ。@「月の修道院」という名前が何ともロマンチックで、それにつられ泊まってみることにした。@内部の至るところにかつての修道院の趣が残っている一方、最近のリノベーションで室内の設備は申し分無い。@下の写真はリセプション前の旧修道院の中庭を囲む回廊である。@私の部屋はオーシャン・ビューで、バス、エア・コンディショニング、ミニバー、テレビの付いたダブル・ルームのシングル・ユースだ。@朝食がついて税込みで300,000リラという室料は一人旅にはちょっと高いが、そもそもアマルフィの三ツ星以上のホテルはどこもかなり高いし、シーズン・オフでも安くしない傾向にある。@ポジターノはさらに高い。
ここのレストラン(上写真)でのアマルフィの夜景を見ながらの夕食はすてきだ。@美味で、上品な量の夕食は税込みで70,000リラ。@ワインとカプッチーノも含めて1泊2食税込みで398,000リラとなった。@お奨めできるホテルだ。
このホテルに関する情報は次ぎの通り。
Tel : 089-87-1002 Fax : 089-87-1333
E-mail : Info@lunahotel.it
Home Page : http://www.lunahotel.it/
ただし予約にはFaxを使ったほうが確実のようだ。@英文でのコミュニケーション可。
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参考文献
@@Giuseppe e Roberto Sabella
"Ancient Maritime Republic" Mantoni
Editore - Salerno
@@"The coast of Amalfi"
Mantoni Editore - Salerno
@@塩野七生「海の都の物語(ヴェネッツィア共和国の一千年)」@中央公論社
@@@@
近くの観光地
@@エメラルドの洞窟
Grotta di Smeraldo@@
ここを訪れたところこのところ水位が上昇していて見学は出来ないということだった。
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