|
|
英雄ヘラクレスによって創立されたと伝承の伝えるヘルクラネウム
Herculaneum
は、ネアポリス(ナポリ)からポンペイヘ向う街道筋に位置している。当時の人口は4,000~5,000人程度と推定されている、ティレニア海に面したこの町の眺望はかつてはすばらしく、ネアポリスから十数キロという立地から高級リゾートとして多いに栄えたという。
西暦79年のベスビオ山噴火はこの町を堆積物の下の完全に密封してしまった。それから1900年余り、当時の生活を知る重要な遺産としてこの町はよみがえってきた。 |
|
エルコラーノへ
ナポリ中央駅 Napoli Centrale
内の「Circumvesuviana」の標識に沿って、エスカレーターで地下におり、さらに標識に従って歩いていくと左側にベスービオ周遊鉄道の切符売り場がある。 ここでエルコラーノ・スカビ
Ercolano Scavi
駅までの切符(2002年5月時点で1,55
euro)を買う。 さらにその地下道を動く歩道を使って先に進むと周遊鉄道の改札口(切符売り場の反対側は国鉄のピアッツァ・ガリバルディ駅の改札である。)がある。 この駅の正式名称は
Stazione di Napoli Collegamento FS
。 車内では検察があり、時刻の刻印が無いと罰金を取られるので、必ず自動改札機を使いホームにおりる。 エルコラーノ・スカビに停車するソレント
Sorrento
行きまたはトッレ・アヌンチアータ
Torre Annunziata 、ポンペイ Pompei
経由サルノ Sarno
行きは、中央の2、3番ホームから出るようだ。なお同じサルノ行きでも上記以外はエルコラーノ方面に行かないので間違えないように。
乗車をすれば各駅停車(ACC)で9駅目、約17分、非常に本数の少ない急行(DD)だと約10分でスカビ駅に着く。 改札を出ると駅前広場から線路とは直角に西方向に向う道があり、その坂道を下って行く。
駅前広場には右上写真の案内板があるので安心だ。 道路の右側に観光案内所
Ufficio Turistico
を見、約500メートルほどその坂道を下っていくと遺跡入口の立派なゲート(左写真)が見えてくる。 チケット売り場はこのゲートの右側で、私の訪れた2000年10月30日は午前8時30分開場、入場は午後3時30分まで、見学は午後5時まで可能で、入場料は大人8
euro。 なおポンペイとの割り引き共通券もある。
|
ヘルクラネウムの悲劇 |
西暦63年2月5日に現在のカンパニア地方に大地震が起こったという。 その後地震は頻繁に起こるようになり、特に79年8月に入ってからは規模の大きいものが頻発していた。 しかし、住民は事の重大性に気づいていなかった。
西暦79年8月24日午後1時ごろ、ベスビオ山は本格的に噴火を始めたと言われる。 火口からわずか7kmに位置するヘルクラネウム
Herculaneum
ではあるが、風向きが東南方向であったため初期の段階ではごく少量の火山灰が降っただけであった。 しかし夜半に入りさらに大きな地震が起こり、また噴火を続けるベスビオ山の異様な光景を見て、多くの人々は風上のネアポリスの方へ避難をしたていったらしい。 翌25日午前1時ごろ、それまで軽石を噴出してきたベスビオ山の噴火スタイルが変わった。ベスビオ山の山腹を無気味な音を立てながら下降する熱雲が発生したのだ。それまで残留していた人々もこの恐ろしげな光景を目にして避難を始めたはずだ。続いてサージがヘルクラネウムを襲い、一瞬のうちに建物を破壊し、木材を炭化させ、人々を窒息させた。 ここでサージについて説明しておこう。 火山の爆発によって加熱した水蒸気やガスそして火山灰や軽石などが混ざり合って山腹を這うように移動することがあるが、これを火砕流と呼ぶ。この移動する火砕流の上部には、高温のガス、水蒸気、微細な火山灰などよりなる、火砕流より遥かに高速で移動する濃密な灰雲が発生する。 これをサージ
surge
と呼ぶ。 サージが通過した後にはせいぜい十数センチ程度のごく薄い堆積物しか残さないが、その破壊力は石造建築物を根こそぎなぎ倒し、運び去るだけの強力なエネルギーを持っている。
第一次サージの後、火砕流とサージが繰り返しこの町を襲い、また軽石も降ったようだ。 その結果堆積物は5mにも及んだ。 噴火は異常気象を呼び、滝のような雨を降らせたのであろう、泥流がヘルクラネウムの町を襲い、完全に町を埋めつくした。 その堆積物はなんと20メートルを超え、海岸線も西へ400メートルせり出していった。 このようにしてヘルクラネウムは完全に埋没し、忘れ去られていった。 ヘルクラネウムの上には中世期にレジーナ
Regina
という新しい町が作られていった。
|
ヘルクラネウムの再発見
ヘルクラネウムの発見はオーストリアのエルベフ公
Fürst d'Elboeuf
によってなされたと言えよう。 彼はレジーナの農民が自家の井戸を掘っている最中にローマ時代にさかのぼることが出来る明るい大理石を見つけたと聞き、レジーナの下に計り知れないほどの財宝が隠されているのではないかと考えた。 彼はその農民からその農地を購入した。 1709年のことであった。 深さ22メートルのその井戸の底部から彼は1716年までに各種の方向に横穴を掘っていった。 その井戸の底部がヘルクラネウムの劇場の前に位置していることは後に判明する。 彼の発掘はシステマチックなものではなかった。 次々に芸術的価値の高い彫像が発見されていったが、それらはヨーロッパ中の美術館に散逸していった。
ブルボン家がナポリ公国を手中に収めると、エルベフ公に代わってカルロス三世王
Carlo III di Borbone が1738年から1766年にかけて発掘を行った。 彼は大量の人員を投入し、やみくもに縦穴と横穴を掘っていった。地質が硬い場合にはつるはしや爆薬も用いた。 1738年には「ルキウス・アントニウス・マンミアーヌス・ルークスがヘルクラネウム劇場を自費で建立」した旨の石版が出土し、この場所がヘルクラネウム劇場であることが判明した。 カルロス三世は考古学の知識が無く、単なる好奇心と物欲から発掘を行い、建造物には興味を示さなかったといわれる。 そのため多くの貴重な壁画が破壊されてしまった。 劇場の探査が行われ、また新たな縦穴掘削中に郊外に位置するパピルス荘
Villa dei Papiriも発見された。
1827年から1835年の期間は、今までのトンネル方式ではなく上部の堆積物をそっくり取り除くという方式により注意深い発掘が行われたが、その後の1855年までの期間は無計画でやみくもな発掘にもどってしまった。 この間は王族の慰みのための発掘期間といっても良く、何か興味深い発見がされるとすぐさまそれは埋め戻し、重要人物が訪れた時に偶然発見されたように演出された。
1927年、市中心部全体のシステマチックな発掘がアメデオ・マイウリ教授
Amedeo Maiuri
によって開始された。 レジナ地区は低所得者層の人々の住む地域であったため、密集した家屋を立ち退かせ、遺跡を覆う堆積物を注意深く取り除いていった。 現在ヘルクラネウムの市街地の大部分、南北約200メートル東西約150メートルの地域の堆積物が取り除かれており、公開されている。
ヘルクラネウムの住民は大部分が無事に避難できたものと考えられていた。 それはここからは十指に満たない遺体しか見つかっていなかったからだ。 またナポリにヘルクラネウム街という地名が残っていることも、大部分の住民が安全にナポリ方面へ避難したことの根拠とされていた。 しかし1982年以降市壁の外側の船着場といわれるアーチ型にくり抜かれた部分から次々と累々たる遺体が発見されるにおよび、今までの推論が大きく見直されつつある。 かなりの人数が楽観的な希望から町に留まり、状況が極度に悪化してから避難を開始したようだ。 あるものは海に逃げたが、強風と荒波により航海できず、市壁の外の船着場に避難した人々はサージにより死に追いやられていった。
|
遺跡へ
遺跡入口から中に入ると西に向って舗装道路が走っている。すぐに橋にさしかかるが、ここからヘルクラネウムの市街地が下方に一望できる(右写真)。 このだらだらと続く下り坂を200メートル近く下りて行くと、ゆるやかに道は右に曲がり、さらに150メートル下りていくと正面に遺跡事務所と売店が見えてくる。 その手前にはヘルクラネウムの市街地の地図(下写真参照)がある。
売店の前が見晴台のようになっている。 右下の写真はそこからの眺めだ。その写真上方に見える山は勿論ベスービオ山で、右下に見えるのが後で詳述する郊外の浴場
Terme Suburbane
だ。 左下から右に上がっていく坂道を登り切ったところが市街地への入口となっている。
左側にはこの遺跡内唯一のトイレがあり、そのトイレの手前、今来た道をUターンするように遺跡に降りていくトンネルの入口(下写真)がある。 このトンネルをみちなりに左に曲がり、トンネルを出、橋を渡ると右手市壁の前が郊外浴場だ。
なお見晴台やトンネルを抜けた場所からは「ヘルクラネウムの再発見」の項で述べた市壁の外の遺体が多数発見された、アーチ型にくり抜かれた船着場(おそらく船舶を格納していた場所)がよく見える。
|
ヘルクラネウムには南北に走る5本のカルド
Cardo
と呼ばれる大通りと、東西を横切るデクマーノと呼ばれる大通りできれいに区画されている。 現在発掘されているカルドは左からカルドIII、IV、Vで、カルド
I および II
は家屋の下または未公開地域となっている。 デクマーノは北側(上)がデクマーノ・マッシモ・フォロ
Decumani Massimo - Foro、真中を走るのがデクマーノ・インフェリオーレ
Decumano Inferiore
と呼ばれている。
A |
Terme Urbane |
F |
Aula Speriore |
B |
Sacello degli Augustali |
G |
Terme Suburbane |
C |
Palestra |
H |
Sacelli |
D |
Vestibolo Palestra |
I |
Area Sacra |
E |
Aula Absidata |
L |
Ara di Marcus Nonius Balbus |
|
郊外浴場
市街地に入る前に郊外浴場(地図G)に入ってみよう。地図の上右側の写真の右下方がその郊外浴場で、浴場の前にはマルクス・ノニウス・バルブス
Marcus Nonius Balbus
を祭った祭壇がある。
この浴場は市壁のすぐ外、当時の海岸沿いに位置しており、市壁の中の浴場より時代の下ったものである。 入場口を入るとすぐ右に4本のコラムとアポロの胸像のあるホール(右写真)がある。 このアポロは噴水となっており、その前の受け皿に水がほとばしり出ていた。 三つの大きな窓のある待合室、微温浴室
Tepidarium と蒸し風呂 Calidarium
との間を結ぶ通路は多くの戦士のレリーフで飾られている。そして冷浴室
Frigidadarium もある。
下左は微温浴室。 右下の写真は通路壁面の戦士のレリーフの一つ。
なお、この浴場は男性用と女性用とに分かれていない。
|
カルド
V 通りに沿って
郊外浴場近くのカルド
V
の門から市壁の中に入ると、すぐ左手にあるのが「鹿の家」
Casa dei Cardo (地図14)だ。 この家は南側の地域で最も豪華な家で、海岸に面する南側のテラスからの眺めは最高だったであろう。 この家の名はここで出土した2体の似ているが同じではないそれぞれ4匹の犬たちに襲われている鹿の彫刻から来ている。 この他酔っ払ったヘラクレスの像、ぶどう酒の皮袋を持ったサトゥルヌス神の像もここから出土し、これらは現在いずれもナポリの国立考古学博物館で見ることが出来る。 なお右の写真はその庭園への入口だが、ここに色鮮やかなモザイクが残っているので必見だ。
次にカルドVの右側地図26のテレファスのレリーフの家
Casa del Relievo di Telefo
に入ってみる。 この家も南地区では裕福な家で、海に面して広いテラスがある。ここに残るコラムの色は何ともすばらしい。下の写真左側がそのコラムを写したものだが、残念ながらその鮮やかさを十分示していない。
写真右側がその名のもととなったテレファス伝説を描いたレリーフだ。
|
パレストラ周辺
カルド V
をテレファスのレリーフの家にそって右に曲がると、左手にずらりと並んだコリント式の列柱が見えてくる。ここがパレストラ
Palestra (体育場 地図C)で、この柱廊(右写真)はその西側部分のものである。 このパレストラはその大部分が遺跡に至る道路の下に位置し、未だ地中に埋まっている。 横穴が十字型に掘られており、その交差部分まで入っていくことが出来る。 ここは十字型をしたプールだという。 その交差部分には、暗くて見にくいのだが、木にからみついた5頭の蛇の噴水がある。
この柱廊を奥へ進んでいくと右上方に遺跡ゲートそばの鉄橋が右側に眺められるが(左写真)、あらためて堆積物のすごさが認識できる。
|
デクマーノ・マッシモ - フォロ通りに沿って
町の北側に位置するデクマーノ・マッシモ通りは幅が12メートルもある大通りだ。 その北側は列柱の上に建物の乗っている、現在のボローニャに多く見られるポルティコ
Portico
に似た歩道が連なり、反対側にも歩道がある。 これらの歩道は2.5メートルから2.8メートルもある。 この道の南側は1階が商店、2階が住居となっている建物(左写真)が軒を連ねており、東側には大きなアーチが建っている。
この通りとカルド III
とが交差する位置にあるアウグスターレのコレギウム
Sacello degli Augustali (地図B)にはいくつかのすばらしい壁画(右写真)が見られる。
|
ネプチューンとアンフィトゥリーテの家
ヘルクラネウムの遺跡の中で最高のモザイクが見られるのがこのネプチューンとアンフィトゥリーテの家
Casa di Nettuno e Anfitrite (地図22)である。 この家の主はぶどうの販売で小金を築いた者のようで、貴族のような広壮な屋敷を買うほどの財は残念ながら持たないので、室内を装飾することで我慢したようだ。
中央に噴水を配した内庭の壁面は右写真のように練りガラスのモザイクで装飾されている。 正面にはこの家の名前の由来となったネプチューンとアンフィトゥリーテのモザイク(下写真)が目もあやに輝いている。 その左には犬が鹿を追う狩猟の図であろう、青の発色のすばらしいモザイク(その下写真)がある。 きじ、木の葉のれいを配したデザインとその青を基調とした落ち着いた配色はネプチューンとアンフィトゥリーテのモザイクとは趣を異にしたすばらしさだ。 さらにそのモザイクの上方には穏やかな顔や怖い顔をした頭像のレリーフ(下右写真)が見られる。
|
カルド
IV 通に沿って
カルド IV
通りを南から北に歩いていこう。 まず道路の左側に目に付くのが右写真のカーサ・ア・グラティッチォ
Casa a Graticcio (地図7)だ。 この家はレンガの柱に支えられたバルコニーのある家で、この種の家は安い費用で出来るため、庶民の間で人気があった。
デクマーノ・インフェリオーレの交差点を渡った左側には広大なフォロの浴場
Terme del Foro (地図A)がある。 カルド
IV
側には南から体育場と男性浴場への入口、女性浴場入口、そして従業員入り口の三ケ所の入り口がある。 正式な男性浴場への入口はカルド
III
側にある。 男性浴場は女性浴場の倍以上のスペースがあり、脱衣室
Apoditerium、微温浴室、冷浴室、蒸し風呂がある。 女性浴場には冷浴室は無い。 脱衣室には腰掛と棚がしつらえられており、女性用脱衣室の床のトリトンやイルカやたこやイカのモザイクが印象的である。
さらにカルド IV
を進むと、右側にワイン用のアンフォラ多数が残っている酒屋があり、その隣がネプチューンとアンフィトリ-テの家だ。
|
参考文献
- 金子史郎「ポンペイの滅んだ日」原書房1988
- Georgio Giubelli 「Herculaneum」English version
(translated by Rosella Bregola) Carcavallo editore
- Claudio Converso 「Herculaneum」 German version
(translated by A.B.A) Kina Italia
旅行年月日 : 2000年10月30日
|
|