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パエストゥムの起源については現在のところ明確な資料が発見されていないが、ギリシャの地理学者ストラボ
Amaseia Pontus Strabo (64/63 BC - 23 AD?) の書にギリシャの植民市シバリス
Sybaris がセレ川の河口に要害堅固な植民市を築き、その町が近隣の地域を支配したとあり、またソリヌス
Jukius Solinus というローマ人、彼は地理上の伝説を多く書き残した人物である、はシバリスのドーリア人がアカイア人に追放され、ポセイドニア
Poseidonia を建設した。その町は後にパエストゥムと呼ばれるようになったと書いているそうである。 これらの文献と近代考古学的発見から現在次のように推定するのが一般的である。
紀元前720年にアカイア人とトロイゼン人によって開かれ、おおいに繁栄したシバリスは南イタリアのチレニア海沿岸に政治的、商業的影響力を強めるためこの地域の何箇所かに入植していった。 これらの入植地の中にセレ川の河口の平地に位置し、ヘーラーに奉納された聖域を有し、近隣一帯を支配する場所があった。 この地はイオニア海との通商路の真中に位置する好立地から次第に繁栄していき、紀元前7世紀末または6世紀初頭に植民市となった。 この町は海神ポセイドン
Poseidon (ローマ神話のネプチューン Neptune) にちなみポセイドニアと呼ばれた。
一方セレ川の右岸のエトルスク人の影響力は弱まっていった。 母市のシバリスが紀元前510年にクロトン人との戦いに敗れ、かんぴ無きまでに破壊されてしまったおりには多くのシバリス人を受け入れたことであろう。 この時期に神殿群やフレスコ画のような多くの芸術的作品が残された。
紀元前5世紀に中部アペニン山脈方面からルカ―ニア人が南下して来、彼らの活発な商工業活動から次第にポセイドニアの中でも重要な位置を占めていった。 そして紀元前400年ごろには彼らがポセイドニアを支配することとなる。 紀元前4世紀にはイタリアのギリシャ人、ルカーニア人、ブレンターニ人の間に戦争が起こり、前332年にはギリシャ側を援助するエピロスの王アレクサンダーがルカーニア人をセレ川周辺から駆逐するが、翌年の王の死後再びルカーニア人がポセイドニアを取り戻す。 ターラントの哲学者アリステクセノスによると、その結果ギリシャ語をしゃべることは禁じられ、年に一度だけギリシャ人達は市壁の外に出て彼らの言葉で話すことが許されたと言うことだが、歴史学者たちはこのアリステクセノスが信頼の置ける歴史家だとは考えていない。
前282年から270年にかけてローマとエピロスの王ピュロスとの戦いを経てローマは南イタリアの諸都市を制覇するのだが、この間前273年にポセイドニアはローマの市パエストゥムとなる。 パエストゥムはその後のポエニ戦争時代にもローマに忠誠を尽くし、その結果自分たちの銅貨を鋳造する権利をティベリウス帝の時代まで有する。 このローマ都市の時代に闘技場、フォロ、体育場などの公共施設が作られた。
パエストゥムの衰退はいくつかの要素の複合した原因による。 ストラボによれば市のすぐ南側を流れるサルソ川の氾濫による湿地化があげられている。 さらに軍船および商船建造のための森林の伐採がサルソ川はじめその平地を流れる川の流れを変え、危険な状況になったことと、アドリア海から直接ローマに向う道路が出来たため、パエストゥムはもはや通商路の要の地位を維持することができなくなったことなどである。 このようにしてケレス神殿周辺の小村と化していったパエストゥムであったが、9世紀に入りマラリアの発生とサラセン人の襲撃により残っていた住民もこの地を去って行き、マグナ・グレキアの最重要都市の一つだった市が忘れ去られていった。
1752年ブルボン家のカルロス三世王の命による道路建設中にパエストゥムは再発見され、世界の注目を浴びるようになった。
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パエストゥムの遺跡はナポリからティレニア海沿い約90km、サレルノ Salerno
から36km南下したところに位置する。 かつてはサレルノからバスが頻繁に遺跡を縦断する国道を突っ切って走っていたのだが、現在はそこが歩行者天国となっているためか、本数がすこぶる少ない。 またサレルノのバス停が非常に分かりにくいので、バスの利用は薦められない。
一方、列車はと言うとこれまた本数が極めて少ない。 しかし確実性と言う観点からは良い選択だと思うので詳述しておく。 ナポリ、サレルノ方面からはパオラ
Paola、シチリアへの玄関口ビッラ・サン・ジョバンニ Villa S. Giovanni 方面へ行くローカル列車に乗りパエストゥム駅まで行く。 2000年/2001年冬の時刻表は次の通り。 これパエストゥムに停車する列車の全てだ。
列車番号 |
Napolo |
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Pompei |
Salerno |
Paestum |
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列車番号 |
Paestum |
Salerno |
Pompei |
Napoli |
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12355 R2 |
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05:30 |
06:10 |
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3700D |
05:57 |
06:32 |
06:55 |
07:32 |
C |
3451 D |
05:15 |
C |
05:44 |
06:20 |
06:56 |
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3704 D |
08:08 |
08;47 |
09:18 |
09:49 |
C |
3453 R |
05:59 |
F |
06:46 |
07:13 |
07:49 |
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3706 D |
14:33 |
15:17 |
15:38 |
16:12 |
C |
3455 R |
08:15 |
C |
08:49 |
09:13 |
09:49 |
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12698 R2 |
15:07 |
16:08 |
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3457 D |
12:20 |
C |
12:46 |
13:13 |
13:49 |
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3708 D |
16:18 |
16:54 |
17:16 |
17:46 |
C |
3461 D |
14:20 |
C |
14:46 |
15:13 |
15:49 |
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3710 D |
18:11 |
18:49 |
19:11 |
19:58 |
F |
3465 D |
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17:10 |
17:59 |
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3712 D |
20:17 |
20:57 |
21:19 |
21:50 |
C |
3467 D |
18:25 |
C |
18:52 |
19:17 |
19:52 |
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3714 D |
22:10 |
22:43 |
23:06 |
23:35 |
C |
3471 D |
20:56 |
C |
21:24 |
21:48 |
22:24 |
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このうち12355、3457、3465、3704、12698は日曜祭日運休。 またナポリの時刻の後ろの「C」はNapoli
Centrale、「F」はNapoli C. Flegrei。 ナポリからの日帰りなら、朝08:15発の3455で発ち、16:18の3708または18:11の3710で帰れば、遺跡と国立考古学博物館を十分堪能できるだろう。
なお2000年秋に訪れた際はサレルノから、タクシーを使ってしまった。 90、000リラだった。
さてパエストゥムの駅舎を背にするとポルタ・シレーナ Porta Sirena と呼ばれる市壁の門(左写真)が見える。 そこをくぐり、まっすぐ10分ほど歩くと遺跡に着く。 遺跡の手前を南北に走る国道の手前右側にデッレ・ローゼと言う2つ星のホテルがある。
パエストゥムの市域は広大である。 市壁は総延長4,750メートル、高さは約4.5メートル、厚さは1.5から2.1メートルほどだ。 市壁に囲まれた市域は北西部分が欠けたほぼ五角形をしており、南北約900メートル、東西は1600メートルだ。 市壁の門は東西南北各1箇所、計四ヶ所ある。 国鉄駅近くのポルタ・シレーナをくぐったところからパエストゥムの市域に入るわけだが、ここから約600メートルのところにサレルノ方面からヴェリア
Velia 方面に至る国道がある。 この市域を東西に分割する国道の西側の部分が公開されている部分で、主要な建造物はこの中にある。 右の写真はこの国道北側の遺跡入り口(右側の門)から南方を眺めたもの。 遺跡の開門時間近くになると左側の土産物屋やバールの前にはガイド・ブック等が所狭しと並ぶ。 国立考古学博物館は左側の少し先に位置する。
遺跡への入口はここと、この道を600メートルほど南に行った所、それとそこを越え市壁を出たところを右折して200メートルの所の計3ヵ所だ。 入園料は博物館との共通券で2000年冬は12,000リラ。 遺跡のみまたは博物館のみは8,000リラだ。 入場券は遺跡入口で売っている。 |
南側の入り口から中に入ってみることにしよう。 左手前方に堂々とそびえるのが通称ポセイドン(ネプチューン)神殿
Temple of Poseidon だ。 残念ながら2000年冬現在修復中で、右写真のような針ねずみのような状態であった。 そこでかなり古いが1987年冬に撮影した銀塩写真を使って説明していこう。 下の写真が入り口(東側)方面から見たものである。 紀元前450年ごろの作と推定され、ここパエストゥムの神殿群中では最も新しいものである。 正面に6本、側面に14本、都合外周に36本のコラムを有するこの神殿はドーリス式神殿の代表的な作品の一つで、保存状態の点からも貴重な遺産だ。 アテネのパルテノン神殿とは同時代の作で、そのスタイルはどことなくパルテノンを彷彿とさせるが、パルテノン神殿よりは小ぶりだ。
伝統的にポセイドン神殿と呼ばれているが、この一帯は全てヘーラーに奉納された聖域であり、この神殿もヘーラーのためのものであるという推定が現在大勢を占めるに至っている。 ちなみにここはヘーラー第二神殿と言うのが正式名称である。
中に入ってみると(1987年には自由に入ることが出来たが、現在は立ち入り禁止となっている。 修復が終わってもまわりに柵が張り巡らされる可能性が高い。)、2列の2層のコラムが並んでおり、それが屋根を支えていたわけである。 木製の梁にテラコッタ製のかわらがのっていた屋根があった当時の内陣は薄暗く、神秘的なムードを漂わせており、内陣の突き当りには巨大な女神像が安置されていたことが想像される。 内陣の前室右手には3段ほどのみ残っている階段が見られる。 この階段は上階へのアクセス手段で、上階には壁とドアーで内陣から仕切られた宝物庫があったと考えられている。
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ポセイドン神殿のすぐ南隣に位置する、バジリカと Basilica 呼ばれる神殿(右写真)はパエストゥムの3神殿中最大かつ最古のものである。 正面に9本、側面に18本、合計50本のコラムからなっているドーリス式の神殿で、紀元前6世紀半ばの作と推定されている。 上記のポセイドン神殿より100年ほど前の建造ということになる。
「バジリカ」という名称ははこの神殿が発見された18世紀当時の考古学者たちが、その発見時の構造的特長が彼らのギリシャ神殿に対する知識と異なっていたため、これは神殿ではなく公共建築物に違いない、バジリカだと判断したからだ。 まず正面のコラムが奇数という神殿など例が無いこと、また奇数であるためその真中に一列7本(3本のみ復元されている)のコラムがあり、内部を2つに分割しているのは神殿としておかしい等々であった。
その後小さな奉納用の像が発見されたこと等により、現在ではヘーラーを祭る神殿、もしくは少なくともヘーラーに捧げられた聖域の一部であると信じられている。 内部が2つに分割されているという問題も、ナーオス
Naos (内房)とドアーで仕切らたプロナーオス Pronaos とに分けられていたと考えることにより解決できるわけである。 なお現在までにイタリアで発掘された神殿の中では内部が2つに分割されているのはここだけである。
この神殿も現在修復中で、ここに掲げた写真は1987年のものである。
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バジリカやポセイドン神殿のあるヘーラーの聖域と後述するケレス神殿のあるアテナの神域の中間にフォロは位置する。 ここのフォロはローマの最古のフォロのひとつに数えられている。 幅57メートル長さ160メートルという広さを誇り、周辺には飲食店その他の店舗、マーケット、浴場、体育場、劇場(屋内)、野外劇場(写真下左)、闘技場(写真下右)などが所狭しと並んでいる。 そのうち素人目にもわかりやすい野外劇場と闘技場の写真を掲げておこう。 なお闘技場中央部に旧国道が位置しており、発掘されているのはちょうどその西半分のみである。
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フォロの北側、心もち小高い所に位置するのがケレス神殿 Temple of Ceres だ。 右の写真は2000年のもので、ここだけは修復用の足場等一切無かったが、周囲に木製の柵が張り巡らされていて中には入れない。
この神殿はちょうどバジリカとポセイドン神殿の中間、紀元前4世紀末の作と考えられている。 前面6本、側面13本、計34本のコラム構成で、基壇部の大きさは正面16.8メートル、側面36.0メートルで他の2神殿に比べかなり規模が小さい。 この外周の列柱は初期ドーリス式のものであるが、プロナオス(前房)の正面4本側面3本計8本の列柱はイオニア式である。 現在その柱脚部分が残っているだけだが、その柱頭
Capital のうち2個を国立考古学博物館で観ることができる。
この神殿は農業の女神ケレースに奉納した神殿だとして命名され、今なおこの名称が使われているが、多数の小さなテラコッタ製のアテナを象徴する像が発見され、またアテナの名前の入った壷の破片が見つかるに及んで、アテナの神殿であることが確信されるに至った。 またギリシャ都市では知と芸術の女神であるアテナの神殿は最も高所に建てるということが知られており、この神殿がアテナに奉納するものであるとする説の裏づけとなっている。
なおこの神殿の内室の南面から3基のキリスト教徒の墳墓の痕跡が発見されており、この神殿が中世初期にキリスト教会として使われたことが知られている。 しかしここも9世紀のサラセン人海賊の襲来により打ち捨てられた。
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1) Paestum は「ペストゥム」と発音する場合もあるので注意。
2) 遺跡は年中無休で09:00に開場するが入場締め切りは時期によって異なり14:30の季節もあれば18:00の季節もあるので注意。 なお退場時間は入場締め切りから1時間後。
3) 考古学博物館は第一および第三月曜日を除く毎日09:00から19:00。 入場は18:30まで。 したがって10月から3月ごろの遺跡の閉場時間が早い季節には博物館を後にするほうが一般的に便利。
4) 遺跡周辺のホテルは3星または2星で予約に苦労する。 私の泊まった2星のデッレ・ローゼ
Delle Rose はインターネットで申し込んだが返答が無く、ファックスを送ろうとすると人が出てしまって困った。 結局1泊朝食付き6万リラで泊まったが、お勧めできるような場所ではなかった。 なおインターネットの予約をチェックする者がいず、電話の調子が悪くファックスの受信ができないということだった。 海岸沿いにはリゾート・ホテルがあるが、駅にタクシーが無いのでレンタ・カーでも借りる場合以外薦められない。
5) 駅にタクシーがないといったが、切符を売っていない場合が往々にしてある。 博物館の先のバールで購入しておくこと。
6) 本項記述にあたっては2000年11月に訪れたときの情報を元に正確を期したが、時刻表等、間違い、変更等ありうるので自身の責任で利用すること。
7) 参考文献
A. C. Carpiceci & L. Pennino 「Paestum and Velia」 - Today and
2500 years ago - Matonti Editore
加藤静雄「古代シチリア連想の旅」 三修社 1983
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