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ローマの平和と秩序を回復したヴェスパシアヌス帝が紀元79年6月24日逝去すると、その息子のティトゥスへの皇位継承は実にスムースに行われた。 それと言うのもヴェスパシアヌスはその降って沸いたような皇帝推挙のすぐ後に息子のティトゥスをユダヤ戦役の立役者とし、またその治世中ほとんどの期間をを共同統治者としていたからだ。 さらに念には念を入れヴェスパシアヌス皇帝法を成立させ、息子への皇位継承を磐石のものとしていたのであった。
さて39歳で皇帝となったティトゥスは常に良き皇帝でありたいと努める男だった。 しかしその彼に次々と大災害が襲いかかる。 まず皇帝就任2ヵ月後にヴェスヴィオ山の大噴火が起こった。 翌80年春には首都ローマの大火(この時の善政ぶりはモーツァルトの「皇帝ティトゥスの慈悲」と言う作品を生んだ。)、その翌年80年夏にはイタリア全土に疫病が発生している。 皇帝ティトゥスはこれらの災害の対策に全身全霊を打ち込んだ。 その結果わずか治世2年余りの紀元81年9月13日、帰らぬ人となったと言う。
79年のヴェスヴィオ山の大噴火は実に悲惨なものであったが、皇帝ティトゥスにより生存者には手厚い保護が与えられ、災害からの復興には最善の努力がなされた。 しかしポンペイ周辺の被害はあまりに大きく人間の手に負えるものではなく、復旧は放棄され、ポンペイは次第に忘れ去られていったのだった。

もくじ

遺跡へ
フォロの浴場からファウノの家へ
歴史
ヴェッティーの家
小プリニウスの手紙
円形競技場
ポンペイの悲劇
大体育場
ポンペイの再発見
三角フォロと大劇場周辺
マリーナ門から遺跡に
エルコラーノ門から秘儀莊へ
バジリカ
開場時間・休場日・入場料
フォロとその周辺
参考文献・その他

Pompei Scavi - Villa dei Misteri遺跡へ

イタリアのガイド・ブックを開けば間違いなくポンペイについての記述があり、遺跡への経路が書いてある。 しかし念の為記述しておこう。
Napoli中央駅地下のヴェスーヴィオ周遊鉄道 Circumvesviana 駅からソレント Sorrento 行きに乗り、ポンペイ・スカビ - ヴィッラ・デイ・ミステーリ Pompei Scavi - Villa dei Misteri 駅で下車するのが一番便利な行き方だ。 通常1時間に2本あるほとんど各駅に停車するディレット Diretto (DIR) だと36分、1日に6本あるディレッティッシモ Direttisimo (DD) だと途中エルコラーノ・スカビ Ercolano Scavi、トッレ・デル・グレーコ Torre del Greco、トッレ・アンヌンツィアータ Torre Annunziata - Oplonti のみ停車で23分と早い。 ポンペイ・スカビ駅からはソレント方向に少し歩いたところの左側に遺跡入り口がある。
ヴェスーヴィオ周遊鉄道でナポリからポッジョマリーノ Poggiomarino 行きに乗り、ポンペイ Pompei 下車と言う行き方もあるが、こちらはおおむね1時間に1本。 周遊鉄道の線路に直角に南にヴィア・ピアーヴェ Via Piave をマドンナ・デル・ロザリオ聖堂 Santuario della Madonna del Rosario を目指し、その聖堂に沿って右折してヴィア・ローマ Via Roma をナポリ方面に少し戻ると程なくピアッツァ・アンフィテアートロ Piazza Amfiteatro の奥に入場口が見える。
国鉄のポンペイ駅からは線路に直角に北にヴィア・サクラ Via Sacra を行き、マドンナ・デル・ロザリオ聖堂の前が前述のヴィア・ローマであるのでそこを左折する。

歴史

ギリシャの地理学者ストラボ Amaseia Pontus Strabo (64/63 BC - 23 AD?) によれば、ポンペイはイタリアの先住民の一種族オスク人により建設されたと言う。 恐らくそれは紀元前8世紀頃のことであり、海に近くまた内陸のヌケリア等からの物資の貿易港として、またヴェスヴィオ山麓の火山灰地でのぶどうの栽培で繁栄していった。 最初にポンペイを支配したのはクーマエ人で、続いてエトルリア人、そして紀元前400年ごろにはサムニウム人の支配下に入った。 そのサムニウム人は紀元前321年カウディウムにおいてローマに大勝する。 しかしローマはカプアが紀元前316年にサムニウム人に寝返ったのを機に戦端を再び切り、南イタリアへの要であるカプアを取り戻すとその4年後にはローマからカプリまでアッピア街道を敷設する。 このようにしてじわじわとローマはサムニウム人の支配下にあった地方をローマの勢力に組み入れていき、ポンペイの町は紀元前310年ローマの支配下に入っていく。
当時のローマでは既に3万アッセの資産を持ち、5歳以上の息子を持つ解放奴隷にはローマ市民権取得が認められていた。 一方ローマの同盟都市国家の市民はローマ市民権を持たない不利を甘受しなければならなかった。 その不満が高じ、紀元前91年には同盟者戦役と呼ばれるローマ連合の盟主ローマに反旗を翻す同盟都市国家の反乱が勃発した。 イタリア半島中部と南部に燎原の火のように広がっていったこの反ローマに戦いはポンペイも包み込んだ。 しかし紀元前90年に執政官ルキウス・ユリウス・カエサルは「ユリウス市民権法」を成立させ、戦争を終結させることを条件に同盟都市国家市民のローマ市民権取得を認めた。 反ローマ勢力はその目的を失い、しだいに勢いがなくなっていき紀元前89年に終結する。 ポンペイも同年スッラに屈服した。
オスク人によって最初に建設されたポンペイはフォロを中心とする一角であった。 その後ギリシャ人やエトルリア人の支配の下にその初期ポンペイ市域の周りが新たな市域として加えられた。 その拡大した市域は市壁の南西部分に相当する。 その後サムソニウム人の時代に最大となったポンペイの市域はおおむね東西1,200m、南北650m、周囲には7つの門を持つ堅固な市壁が張り巡らされている。
ヴェスヴィオ山山麓ではぶどうやオリーブが栽培され、また近郊に次々ローマの富裕階級のヴィラが建設され、ポンペイの町は繁栄の度を早めた。 広場 Forum、バシリカ Basilica、神殿、公共浴場 Thermae、円形闘技場 Amphiteatrum、劇場 Theatrum、体育訓練場 Palestra、マケルム(食肉市場) Macellum、凱旋門 Arcus 等の公共建築物が次々と整備される一方、居酒屋 Caupona、飲食店 Taberna、一杯飲み屋 Thermopolium、パン屋 Pistorium、毛織物工房 Fullonica、ガルム(魚醤)屋 Garum 等の商工業建築物も軒を並べた。
大通りは真中に車道、そして両側に歩道が配され、鉛管を用いた上水道が引かれていた。 もっとも上水道は全ての家に引かれていたわけではなく、一部の上流階級の邸宅や公衆浴場などの公共施設、そして公共の水汲場や水呑場などに引かれていた。 家屋の床下を温風の流れるセントラル・ヒーティングも行われ、市民は現代顔負けの快適な生活を楽しんでいた。
西暦63年2月5日に大地震が襲い、この繁栄した町に甚大な被害を与えた。 近郊のヴィラのなかには復旧をあきらめ、ぶどう酒農園となったものもあった。 市内でも懸命に復旧が進められたがそれが完成することを待たずに西暦79年を迎えたのである。
Foro and Mt. Vesuvio一方ヴェスヴィオ山の方は紀元前217年に噴火したらしいことが知られているが、その後はなりを潜めていたのであろう。 スパルタクスが仲間の剣闘士と共に蜂起してヴェスヴィオ山に立てこもったのは紀元前72年のことであった。 

ヴェスヴィオ山噴火に関する小プリニウスの手紙

アウグストゥスからネルヴァに至るローマ皇帝の所業およびその周辺の出来事がかなりの正確性をもって現在知られているのはタキトゥス Publius Cornelius Tacitus (AD 55 - 120)の著作によるところが多い。 タキトゥスはその著作『同時代史 Historiae』の中にこのヴェスヴィオ山の大噴火について記したはずであるが、この部分は中世期に残念ながら失われてしまって現存しない。
しかし、そのタキトゥスの記述のもととなったはずの書簡が幸運なことに残っていたのだ。 『博物誌 Naturalis Historia』の著者として知られるプリニウス・セクンドゥス(大プリニウス) Gaius Plinius Secundus の甥で、その養子となったプリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス) Gaius Plinius Caecilius Secundus がタキトゥスに宛てた2通の手紙がそれだ。 ヴェスヴィオ山噴火当時19歳であった小プリニウスは母親と共にヴェスヴィオ山から40kmほどのナポリ湾口のローマ海軍基地ミセヌムの海軍司令官であった大プリニウスのもとに住んでいた。 第一の手紙は、何事にも好奇心と研究心旺盛な大プリニウスがこの噴火をより近くで観察したいと言う想いに駆られ小快速艇で出航しようと軍港に向おうとしていたところに、友人タクタスの妻のレクティーナから助けを求める手紙を受け取る。 その救助に向うが降下物と大荒れに荒れる海と火砕流のため彼女のヴィラ近くの海岸への接岸が出来ない。 そこでさらに西のスタビアに向いポンポニアスの別荘ヘ行く。 そこで人々を励まし、脱出の機会をうかがううちに熱雲に襲われ大プリニウスが死亡するまでの模様を語っている。 第二の手紙はミセヌムに残った小プリニウスとその母のヴィラからの避難、避難する多くの人々の恐怖と絶望とその行動、そして母子のミセヌムへの帰還までが報告されている。 これらの文書はこの災害発生後20年ほどした頃のものであると言うのが定説である。
この小プリニウスのタキトゥスに宛てた2通の書簡は塩野七生のローマ人の物語 VIII 『危機と克服』260ページから268ページに全訳がある。 ところでこの小プリニウスはトライアヌス帝の時代にビティニア属州総督にもとりたてられた人物で、その間に小プリニウスからトライアヌス帝に宛てた73通と、トライアヌス帝から小プリニウスに宛てた51通の書簡を集めた『小プリニウスとトライアヌス帝との往復書簡』が残っており、トライアヌス帝の帝国統治方針が良く現わされている。

ポンペイの悲劇

ヴェスヴィオ山の噴火の状況は小プリニウスの2通の書簡と堆積物の分析、近代火山学の発展のおかげでかなり正確につかめるようになってきている。
小プリニウスの母が巨大な黒雲に気づいたのは西暦79年8月24日午後1時ごろだった。 この日は東南の風が吹いていた。 ヴェスヴィオ山の噴火は当然母親がその異変に気づく前に始まり、風下にあたる地域にはそのころには火山灰が降下を始めていたことだろう。 しかしヴェスヴィオからわずか10kmほどのポンペイは東南の風向きの風下に位置していたにもかかわらず噴火の初期の段階では火山灰の降灰はなく、より比重の重い軽石が降下した。 最初に降った軽石は比較的均質なもので130cmから140cmくらい堆積している。 この堆積が40から50cmに達したころ、その重みで屋根が崩壊し始め、ポンペイの住民は危険を感じ脱出を始めたらしい。 25日の朝までにはその上にさらに130cmくらいの灰色の軽石が降下したが、この中にはこぶし大の石が含まれておりこれは大変危険な代物だ。 このころには第3次サージが襲ったが市壁の北で止まり市内には入らなかった。 しかし市壁の外のディオメデスの家と秘儀荘はその犠牲となった。 ディオメデスの家の地下では12体の遺体が見つかっている。 すでに堆積物が2.4m程にもなっていた25日朝にはS4サージが市内を襲い、市内に残っていた人々を根こそぎ窒息させた。 S5サージに次ぐ、火砕流を伴ったS6サージの破壊力はすざまじく、建物を根こそぎ破壊した。 そして1.8メートルにも及ぶ堆積物はポンペイの町を埋没させた。
当時のポンペイの人口は1万5千人から2万人。 このうちの2,000人から5,000人、さらには8割の人々が犠牲になったとする説もあるが勿論確証はない。 市内に残った人々が全滅したと言うのは間違いがないが、小プリニウスの書簡から類推すると24日の午後4時か5時にはすでに海は大荒れであったので、人々は陸路風上側のネアポリス方面を目指したはずだ。 25日午前2時頃には強力なS2サージがヘルクラネウムを襲っているから、その時間よりかなり前にこの辺りを通過しておらねば助からなかったはずだ。 したがってよほど早めに避難を開始したごく一部の人々のみが助かったのではないかと私は思っている。

再発見と発掘

このヴェスヴィオ山の大噴火の後ポンペイに戻り財産の発掘を試みた少数の人々がいたといわれるが、次第にポンペイの大惨事のことは人のうわさにも上らなくなり忘れ去られていった。 しかし都市の面影など全く無いこの地がイタリア語の都市と言う意味のキヴィタ civita と呼ばれたことに、かつてこの地に都市があったことの痕跡を残していた。
ルネッサンス期に入ると79年のヴェスヴィオ山の大噴火により埋没したポンペイやヘラクラネウムやスタビエの所在場所を推定する者が現れたり、また16世紀末にサルノ川からトッレ・アンヌンチアータへ給水するためポンペイの遺跡の上に地下水路が掘られた時には遺跡の一部にぶち当たっているが、それがポンペイだとの認識は全く無かった。 その後もキヴィタの下にポンペイが眠っていると推論する者が何人か現れたが、キヴィタの発掘はなされなかった。
1748年、ブルボン王家はキヴィタの発掘命令を出した。 幸運なことに発掘開始早々壁画、犠牲者、ネロ帝およびヴェスパシアヌス帝の金銀貨が次々と発見され、またヘルクラネウム門近くでは美しい壁画が発見されるにおよび、その発掘はにわかに注目されるようになった。
1763年には車道とその両側に歩道を持つヘラクラネウム門 Porta Ercolano、そして門の外の墓地通り Via dei Sepolcri の南に接するキケロの邸宅と後に考えられるヴィラからは保存状態の良いモザイクが出土された。 それらは現在ナポリの考古学博物館で見ることが出来る。
1767年ヴェスヴィオ山は噴火をはじめ大量の溶岩を噴出した。 1771年にはヘラクラネウム門の外でガラス入りの窓まで持つ別荘と、その中から子供を含む20名の遺体が発見されている。 ポンペイの発掘が無計画に進められる中、「外科医の家」で各種の外科器具が発見され、1831年には「ファウノの家」でアレクサンダー大王のモザイクが発見された。
ただ価値の高い美術品の発見のため遺跡を荒らすばかりとも言える時代はようやく1860年になって終わった。 ジョゼッペ・フィオレッリのもと、発掘作業は組織的かつ慎重に行われるようになった。 彼はまた硬い火山れきの中にできた生態物腐食後の空間に石膏を流し込み、1900年前に焼失した動植物の被災時の姿を再現することにも成功した。 その後アメディオ・マイウリ教授の時代には発掘した建造物を保存するための防護処置が取られるようになった。 しかし所詮発掘と保存は相反するものである。 現在ポンペイでの発掘は全面的に禁止されているが、日本隊等、ごく一部特に許可をされて発掘を継続している部分もある。

マリーナ門から遺跡に

ヴェスヴィオ周遊鉄道のポンペイ・スカビ駅で下車し、マリーナ門(写真下左)から遺跡に入っていこう。 2つのアーチのうち左側の小さな方が歩行者用、右の大きな方が海から魚や塩を運ぶ荷車用だ。 現在門の前まではだらだらの昇りで、門の中のトンネルに入ると急勾配になる。 市壁の内側の車道からマリーナ門を見たところが下右の写真だ。 車道の舗装の模様がよくわかるだろう。

Porta Marina Porta Marina

このマリーナ通り Via Marina の右側にビーナスの神殿 Tempio di Venere、それに続いてバジリカ、突き当たりがフォロ Foro の南端となる。 左側フォロの手前がアポロの神域 Sanctuario de Apollo だ。

Basilicaバジリカ

オスク人によって最初に建設されたポンペイはフォロを中心とする一角。 その後ギリシャ人やエトルリア人の支配の下にその初期ポンペイ市域の周りが新たな市域として加わり、その拡大した市域は市壁の南西部分に相当する。 その後サムソニウム人の時代に最大となった。
バジリカ Basilicaは紀元前120年から78年に建てられたポンペイで最も古い公共建築物で、その広さは 24m x 55m である。 正面入口はフォロに面してい、周囲に高さ約10mのコリント式円柱を配しポルティコとし、初期の段階では商取引の場として使われていたが、その後は司法の場として使われるようになった。 写真はバジリカ正面の裁判官席の2階建ての建物で、その両側には地下の公文書館に通ずる階段が配されている。

フォロとその周辺

フォロ Foro はポンペイの宗教、政治、経済活動の中心で、その広さは 38m x 157m で歩行者だけが入場を許される広場だ。 フォロの中はかつて石灰華がまかれていたが、現在は芝生が植えられ立ち入りも禁止となっている。 その北側部分には高さ3m縦37m横17mの基壇の上にジュピター神殿 Tempoi de Giove が建っていたが、現在はその基壇部分が残っているのみ(ポンペイ・スカビ駅の次の写真がフォロからジュピター神殿そしてヴェスヴィオ山を望んだもの。)である。
Macellum (left) and Foroジュピター神殿の西側にはフォロの公衆便所跡が残っており、フォロの東側に面しエウマキアの建造物 Edificio di Eumachia、ヴェスパシアヌス神殿 Tempio di Vespasiano、ローマ人家庭の守護神の神殿 Tempio dei Lari Pubblici、食肉市場 Macellum が南から北へ軒を並べている。 エウマキアは毛織物業で財を成した女性で、この建物は布地の保管や陳列に使われ、またその売買交渉もここで行われた。 ここからはエウマキアの像が出てきた。 彼女は非常に自尊心が強い女性で、その像はローマ初代皇帝アウグストゥスの皇后リビアの衣装を身に着け皇后を気取っているともいわれる。 食肉市場は37m x 27m の中庭を持ち、周りは屋根で覆われており(左写真のコラムはそのジュピター神殿側のもの)、内部は小さな小間に分割されている。

フォロの浴場からファウノの家へ

フォロを南から北へジュピター神殿を過ぎると左側がフォロの浴場 Terme del Foro だ。 ここはフォロを訪れる市外の人々のためのもので、規模は小さいがポンペイで最も洗練された浴場だ。 正面入り口はフォロとは反対側(北側)のヴィア・デッレ・テルメ Via delle Terme にあり、浴室は男性用女性用に区分され、各々脱衣場、冷浴室 Frigidadarium 、微温浴室 Tepidarium、蒸し風呂 Calidarium とを有する。 男性用には体育場、女性用には中庭も付属している。
Faunoフォロの浴場の角を右にヴィア・デッラ・フォルトゥナ Via della Fortuna へ折れるとすぐ左にファウノの家 Casa del Fauno の入り口がある。 ここはポンペイ一の豪邸でその敷地はこの通りに面する間口が40m、奥行が110mもあり、反対側のヴィコーロ・ディ・メルクーリオ Vicolo di Mercurio まで続いている。 ヴィア・デッラ・フォルトゥナに面し小さな二重の扉のある入り口があり、そこを入ると真中に水槽のあるアトリウムがある。 そこにブロンズの牧神ファウヌスの像があることからこのように呼ばれることになった。 なおここにあるのはコピーでオリジナルはナポリ国立考古学博物館にある。
このアトリウムの先に左右に冬用の食堂に挟まれた応接間があり、その先がイオニア式柱廊のある中庭で、この中庭の北の面し左右に夏用食堂に挟まれ居間が配置されている。 この居間の床には現在ナポリ国立考古学博物館にある有名なアレキサンダー大王とペルシャ王ダリウスの戦いのモザイク Mosaico di Alessandro があった。 さらにその北側にはドーリア式とイオニア式の二重の柱廊を有する非常に広い中庭があり、その北側に裏口がある。
この家の東側の部分は使用人用のエリアで、ヴィア・デッラ・フォルトゥナに面し通用門がある。 ここを入ったところにも4本のコラムのあるアトリウムがある。 浴場はこの使用人エリアに小さいものがある。 ということは家人は広々とし設備がよくスポーツもできる公衆浴場へ行ったのであろうか。

Garden of Casa del Vettiiヴェッティーの家

ファウノの家の裏口を出てヴィコーロ・ディ・メルクーリオを右に行くと左手にヴェッティーの家 Casa del Vettii がある。 この家は富裕な商人ヴェッティーの住居で、その規模はたいしたことはないが、ほとんどが紀元62年の大地震後に描かれたポンペイ第四様式の絵画が豊富に見られるということで大変重要な建造物である。
まず玄関を入ると右側壁面に「豊饒神プリアコス Priapo」(写真下左)が描かれており、正面のアトリウムを右に行ったところの小さいアトリウムには守護神の祭壇(写真下中央)がある。 さらに奥へ進むと突き当りがベット上の男女を描いた絵がいくつかある婦人部屋だ。
大きなアトリウムの向こうが中庭(上写真)で、中庭に面している居間にはギリシャ神話や建物の絵と共にポンペイの赤の美しい二人のバッカスの巫女 Baccante の踊る絵(下写真右)がある。 同じく中庭右に面している食堂には帯状の多数のキューピットの絵があり、当時のポンペイの日常生活をキューピットに託してよく現わしている。

An alter at Casa dei Vetti Bacchante at Casa del Vettii

Anfiteatro円形闘技場

円形闘技場 Anfiteatro と大体育場 Palestra grande はポンペイ市域の最東端、ポンペイの新市街のピアッツァ・アンフィテアトロ Piazza Anfiteatro の入場口を入るとその左右にある。 国鉄または周遊鉄道のポンペイ駅下車の場合には最初に訪れる場所がこのどちらかだろう。
円形闘技場は紀元前80年に建設され、長径135m短径104m、現存する闘技場の中では最古のものだ。 後期のローマ闘技場にはグラウンドに地下室が設けられ、各種の仕掛けがあったが、ここには地下室はない。 
観客席は下から5段、12段、18段と仕切られたスタンド席が合計35段、その上に桟敷席が置かれ20,000人を収容できたといわれる。 下方の2層の観客席には地表と同レベルにある入場口(下左写真の赤色のアーチ部分)から観客席の下のトンネル(下右写真)を通って入場する。 最上段のスタンド席へは競技場の外側の階段(下左写真参照)を登り、闘技場を一周する回廊からアーチ状の入口を通って観客席に入る。 上段の桟敷席には回廊から狭い階段を使って登る。 映画「グラディエーター」を見た方はイメージが沸くと思うが、当時はその桟敷席の後方に支柱が立っており日よけ用のテントが張られていた。 

Anfiteatro Outside Anfiteatro Inside
Palesta grande

大体育場とその周辺

円形闘技場の東に位置する大体育場 Palestra grande は130m x 140m の広さを誇ります。 右写真は円形闘技場から撮ったもので、大体育場北側部分だ。 闘技場側は高い塀のみ、他の3面にはイオニア式の回廊がめぐらされている。 中央には大きなプールがあった。
ここからは100人を超える犠牲者が発見されている。 その中には外科器具一式を持った医者と見られる人物もいた。 彼らの大部分は職人で、南の角にある公衆便所に避難していたところサージに襲われて窒息したのだった。 また西の回廊から十字形の記号が見つかり、キリスト教信者の存在を証明するものであるといわれている。
Necropoli di Porta Nocera大体育場の南のヌケリア門 Porta Nocera を出たところにはヌケリア門のネクロポリス Necropoli di Porta Nocera (写真右)がある。 これらの墓はおおむね誰のためのものか判明しており、エウマキアの墓もここにある。 ネクロポリスはこの他北側のノーラ門 Porta di Nola およびヴェスヴィオ門 Porta Vesuvio、西北のエルコラーノ門 Porta Elcolano および南西のマリーナ門のいづれも外に見ることができる。 ちなみにローマでは共同墓地は市壁の外に作る。 ポンペイでは市壁の中に共同墓地がないことから、現在の市壁がこの町の最初で最後の市壁だと考えられている。

Teatro Grande三角フォロと大劇場周辺

マリーナ門と円形闘技場近くのヌケリア門の間のスタビア門の西側には文化・スポーツ施設や神殿が所狭しと建っている一角がある。
大劇場 Teatro grande は紀元前3世紀末に建設されたものをアウグストゥス帝の時代に増改築したもので、5,000人を収容した。 この劇場にはテントが張られ、観客を太陽と雨から守ったという。
小劇場 Odeion は四角錐形の屋根付の劇場で主に音楽会やパントマイム公演に使われていた。 下右の写真はその舞台側から撮ったもので、オーケストラの向こう側に17段のスタンド席が見られる。
Odeionその敷地の中に紀元前6世紀頃のものといわれるドーリス式神殿をもつ三角フォロ Foro Triangolare からは長い階段によりクワドリポルティコ Quadriportico del Teatri (四方に柱廊のある建物)に通じている。 この建物は劇場の観客が公演前や休憩時間に歓談する場所として使用されていたものを、ネロ帝の時代に二階建てに増築され、その2階は円形闘技場で戦う剣闘士達の宿舎として使われた。 この二人部屋が66ある宿舎からは剣闘士と見られる63人の男と、宝石を帯びた女の死体が発見された。 この女性は剣闘士に熱を上げていた裕福な女性ではないかといわれている。 またこの建物からは種種の武器も発見された。
この一角には他にイシス神殿 Tempoi di Iside、アスクレピオス神殿 Tempio di Asclepio やサムニウム族の体育館がある。

エルコラーノ門から秘儀荘へ

ポンペイの北西の角のエルコラーノ門 Porta Elcolano は真中に大きなアーチのある車道を挟んで両側に歩道が付いている。 この門を出たところがヴィア・デイ・セポルクリ Via del Sepolcri = 墓地通り。 門の外の両側が墓地となっている。 この道はやがてY字路となるが、その左側部分と中央部分にも墓地が並ぶ。 Y字路を左に取るとすぐ左がディオメデスの別荘 Villa di Diomede で、この道をさらに進むと秘儀荘 Villa dei Misteri に至る。 現在は秘儀荘までが遺跡公園の内側で、秘儀荘脇にも出口がある。
ディオニソスの秘儀さてその秘儀荘だが、かなりの長年月をかけて増改築が行われ、その結果大変豪華な邸宅へと変身していった。 その名称は鮮やかなポンペイ・レッドを背景に「ディオニッソスの秘儀」のありさまを描いた壁画に由来する。 この壁画は3面の壁面に縦3m、横17mという規模で、その中に29人の人物(天使も含む)が描かれている。 左の写真で室内にどのようにこの壁画が描かれているのかのイメージをつかめることだろう。 下の写真はその左端の部分(写真が2枚に分かれているが、連続するよう配置した。)。 左から2二人目の少年ディオニソスが教理を受ける女性(上写真の右端の女性)に儀式作法を読んで聞かせているところだ。 その女性は隣の壁の鞭打ちの場面を見て驚き、ディオニソスの話を聞いてはいないように見える。 4番目の人物は食べ物を、7人目はぶどう酒を給仕している。 8人目の人物はディオニソスの従者のシレノスで、うっとりとして竪琴を奏で、9人目の男性は縦笛を吹いている。

デュオニソスの秘儀(1)
 
次の壁面の左端が上左の写真で、左から3人目の腰をかけている男性とその後ろに立って片手を男性の胸部に回している顔の部分が欠落している女性のカップルは、ディオニソスとアリアドネの結A lever press to squeeze the juice of grapes婚を現わしている。
このデュオニソスの秘儀の描かれた部屋の左隣の部屋には踊るサテュロスを含むこれもすばらしい壁画が見られる。
秘儀莊の所有者は紀元63年の地震で甚大な被害を受けたらしく秘儀莊を手放し、買い手は秘儀莊をブドウ農園として使ったようだ。 右の羊の頭の彫られた太く長い棒は、ブドウ圧搾機のてこの部分で、このことがそれを表している。

開場時間・休場日・入場料

次の資料は2000年度のもの。

開場時間 入場券販売終了時間 閉場時間
3月 - 9月 08:30 18:00 19:30
10月 - 2月 08:30 15:30 17:00




休場日    1月1日  5月1日  12月25日

入場券種類 入場料 有効期間
4サイト (Pompei、Oplonti、Stabia、Boscoreale) 8 euro 1日
5サイト (Pompei、Ercolano、Oplonti、Stabia、Boscoreale) 13 euro 3日





     もし日程が許すなら5サイト券を購入するのがだんぜん買い得である。

参考文献


   塩野七生 ローマ人の物語 I 『ローマは一日にして成らず』 
   塩野七生 ローマ人の物語 III 『勝者の混迷』 
   塩野七生 ローマ人の物語 VIII 『危機と克服』 
   金子史郎 『ポンペイの滅んだ日』 原書房
   アルベルト・カルロ・カルピチェーチ 『ポンペイ』二千年前 ボネキ観光出版社

 

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